予告 第8回 映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会@MIMOLETTE

映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会@MIMOLETTE、第8回は新作は「岸辺の旅」、旧作は「日本の夜と霧」を課題映画としてゆーるく語ります。それぞれの映画に関して語りたい皆様の参加をお待ちしています。

この模様は当サイトにてポッドキャストで配信します。

会場は神戸、JR住吉駅近くのバー、MIMOLETTEさんです。当日のタイムテーブルは下記の通りです。

2015年10月18日(日)
第7回 映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会@MIMOLETTE

新作「岸辺の旅」、旧作「日本の夜と霧」 映画評
17:00~19:00

参加費:600円(ワンドリンク付 *ビールの方のみ650円)

今回は第68回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門 監督賞受賞「岸辺の旅」と、第7回参加のにかいどうさん推薦の1本「日本の夜と霧」です。

イベントのご参加は下記リンクのFacebookイベントから!
皆様のご参加お待ちしています。

次回は10月18日(日)映画の感想を神戸住吉MIMOLETTEにてゆるゆる話します。今回の課題映画は 新作 「岸辺の旅」 旧作 「日本の夜と霧」参加費:600円(ワンドリンク付き ※ビール注文の方のみ650円)Podcastも収録します

Posted by 映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会mimolette on 2015年9月30日

OzyAkko


「予告 第8回 映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会@MIMOLETTE」への2件のフィードバック

  1. 部長さん、10月の「映画館で映画をできるだけ見ようと思ってる人達の会」に参加予定の皆様、こんばんは。9月の収録に参加させていただいた、(まる眼鏡で理屈っぽい話をしたがる)にかいどうです。
    折角、課題映画を選出する栄誉をいただきながら、肝心の10月18日の収録には残念ながら参加できません。本当に、ごめんなさい。
    以下、収録に参加するつもりで、「日本の夜と霧」観賞後のメモランダムを作りました。収録の折、きっかけにでもしていただければ幸いです。

    * タイトルについて勘違いをしていました。

    * 有名な「夜と霧」(みすず書房から出版されてますね)が、頭にあったので、「ああ、アウシュビッツね」ぐらいに軽く考えてましたが、これ、たぶん大きな間違いではないかと。もともと、「夜と霧」が第三帝国の実施した作戦名である事は知ってましたが、これ自体は、ユダヤ人を虐殺しろとか、収容所に入れろという命令だったわけではなかったようです。ウィキペディアを読んだだけなので、くわしくは、そちらを確認していただきたいのですが、それを読むと、確かにこの作品は「日本の」、「夜と霧」に相当すると思うことができました。初めて観たのが20年ぐらい前でしたから、それ以来の勘違いをようやく今回の再観賞で修正できた気分です。皆様は、タイトルについては如何でしょうか。

    * やたらと、役者さんが舌を噛みますね

    * これまたウィキを読んでしまったら、「あら書いてあるじゃない」的なことがあったので、ややネタバレ的に。僕も知りませんでした。
    * 出演者が、セリフをとちっているのは、演出としてわざわざとちっているのだと思っていましたが、違うようです。撮影期間を短くするために、失敗テイクをそのまま使ったのが真相。でも、そのおかげで、不思議な緊張感が漂う演出になっています。

    * 渡辺文雄って、他の映画作品でもそうですが、偽善者の役がうまいですよね。
    * ヒロインがなぜ小山明子かという問題への邪推

    * 大島監督が京都大学で運動中に憧れた女性が、リーダー格の男と仲が良かったもんだから、そのときの悔しさを、この作品で昇華したのではないかと。だって、大島監督の奥さんだもの、小山明子。

    以上は、まあ、雑談レベルの話題提供です。
    本題に入ります。
    初見の時もそうでしたが、この作品、あまり「良い映画、すばらしい作品」とは思えませんでした。それは、映画ならではの表現に頼った(基づいた、の方が適切な表現かも)所が、ほとんどないからです。この作品の、どのショットからも、どのアングルからも、作り手達の非凡な何かを感じませんでした。僕は、舞台演劇には詳しくありませんが、この作品は、ほとんど舞台演劇です。撮り方という点では、暗転(フェードアウトではなく、舞台の照明が落ちるような)の多用、でもシーンの演出の仕方、セットの少なさなど、まるで舞台演劇のテレビ中継のような画作りをしています。正直、セリフをとちっているのは、舞台演劇がもつ「一発勝負」の雰囲気を持ち込もうとしたからだと、大いなる勘違いをしていました。言い訳になりますが、それぐらい、大島監督が舞台演劇を意識して撮っていると思っていたのです。ただ、初見当時はその理由が解りませんでした。今思えば、そこは理由がなくて当然でした。そこは、作品にとってはあまり意味がない部分だったからです。この作品は、大島監督にとっては「偉いさん達が騒ぎ出す前に、さっさと撮影を済ませて、とっとと上映に持ち込まなくては」と、ある意味、焦って作っていたはずのものです。だから、少々、役者がとちっていてもフィルムを回して、それを使い、作品として体をなすようにしたのでしょう。まるで舞台のような演出は、あれ以上、時間と手間をかけられなかったからという事情の産物です。
    だから、映画が映像を用いた芸術ならば、この作品は、そこの所にはあまり重きが置かれていない作品だと思います。じゃあ、この作品は芸術としての価値がないのかというと、それはどうでしょうか。あるいは、「政治的なメッセージ性が強いから芸術じゃない」みたいな、へんてこな評価でいいのでしょうか。
    僕は、この作品の価値は、別の所にあると思います。映画が持つ価値、何がしかの芸術作品が持つ価値と大げさに言っても良いかもしれません。それは、この作品のテーマ、あるいは視線が、この作品発表後に実際に起きた70年安保騒動を、完全に予見しているという事です。その事実がわからなかった(当たり前ですが)、公開当時の1960年の時点では、短絡的に特定の政党や政治運動をほとんど「中傷する」ぐらいのひどい作品だと、制作会社の松竹が早とちりをしても仕方がなかったかもしれません。60年当時の社会のざわつき方からして、この作品を一般に公開したら、どえらいことになると、映画会社に勤務するサラリーマン達は恐れたに違いありません。しかし、同じく映画会社に勤めていても、監督は違います。映画監督は、作品のクオリティに対する責任感、芸術に、あるいは未来に対する欲求に基づいて仕事をしているはずです(そうでなきゃ、ウソだ)。彼らにとっては、特定の政党や政治運動などという、目先の、刹那的なものは対して興味の対象ではないのです。それこそ、革命でも起きたらひっくり返ってしまう程度の、命の短い価値観には、芸術家は興味を持ちません。
    60年安保が終わった直後の大島監督の頭にあったのは、政治運動という「熱狂」のカリカチュアだったと思います。もっといえば、「あの馬鹿騒ぎ」を、いかに「馬鹿馬鹿しく描くか」。そして、おそらくそれが、先鋭化とある種の自滅によって決着をつける事になると感じていたのではないかと思います。
    題材として、時代背景として60年安保を取材してはいますが、それは、公開当時においては観客が予備知識を持っていることを、制作者側が期待できたからです。作品中では「党」としかセリフに出てきませんが、あれが「日本共産党」であるとピンと来る人が多い方が、作品としてはインパクトがありますから。インパクトも芸術には必要です。しかし、歴史の一コマとして、しかも義務教育では教わらない(安保騒動が、60年と70年の2回あったという事を、1970年以後生まれの人がどれぐらい知っているか、はなはだ疑問です)騒動から、遠く離れた世代がこの作品を観て、何を思うか。それは、1960年の時点で是非を争った話題や問題に対する解答ではなく、「是非を争っていた」こと自体が描かれているのだなという感想です。その点で、大島監督は未来に対する責任をきちんと果たしている芸術家といえると思います。ああ、亡くなってしまったから「果たしてきた」ですね。合掌。

    長々と、長文を失礼いたしました。みなさまの楽しいおしゃべりが配信されるのを心待ちにしております。

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